第一例会 2015年7月1日(水) 銀座東武ホテル「芙蓉」

新年度初日に新会長・新役員の下で開催され、まさに「新年度のスタート」という雰囲気の例会でした。
水津前会長から境新会長へ認証状が、旧三役から新三役にラベル・ボタンがそれぞれ伝達され、境新会長からは、例会だよりの発行方法を見直す等、これまでの伝統を大切にしつつ新しい取り組みをする年にしたいという趣旨のご挨拶をいただきました。
その後、五役が委嘱状を受け取り、新組織が本格的に発足しました。
後半のテールツイスターの時間では、大越Lと増渕Lがピンマイクを片手に各テーブルを回り、大いに盛り上がりました。

【増尾知恵・記】
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第二例会 2015年7月29日(水) 銀座東武ホテル「芙蓉」

来賓として、桜門ライオンズクラブの浅野みゆきL、田中則雄Lが参加されました。
参加者は、29人と普段より少なめでしたが、お怪我をされて暫くお休みされていた新村Lも久しぶりに参加され、和気藹々とした雰囲気のもとで開催されました。
メンバースピーチは増尾Lが務め、98年に出身地の長野で開催された長野五輪の話を中心に、自己紹介をしました。

【増尾知恵・記】

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メンバースピーチ 2015年7月29日(水)

4月に入会をさせていただきました、増尾です。
大勢の人の前で話をすることに慣れておらず、緊張いたしますが、折角機会を頂きましたので、僭越ながら少しお話をさせていただきます。
メンバースピーチということで、何をお話しようか色々考えましたが、入会したばかりで、まだお話したことのない方もいらっしゃいますので、自己紹介を兼ねて、私のことをお話させていただくことにいたします。

1 私は、昭和60年2月に長野県長野市に生まれ、高校卒業まで、長野で育ちました。

2 小中学校 ― 長野オリンピック
幼少期の一番の思い出と言えば、平成10年に長野で開催されたオリンピックが挙げられます。

(1)長野での開催が決まったのが平成3年で、当時、私は小学校1年生でしたので、オリンピックが開催されるということを全く理解しておらず、道路の拡張と施設建設のために自宅の田んぼが収用された際も「農作業が大変だから田んぼをやめるんだな~。」と思っておりました。
それでも、オリンピックが近づくにつれ、新幹線が開通し、街中もそわそわし始め、学校でオリンピック・パラリンピックの授業を受けるようになりましたので、開催の2~3年前には長野で開催されるということ知り、わくわくしていた記憶があります。

(2)長野オリンピックに関して具体的に印象に残っていることは、「一校一国運動」と「雪ん子」です。

ア 一校一国運動
一校一国運動とは、長野市内の小中学校に、それぞれ長野オリンピック出場予定国や地域が割り当てられ、その国の文化等を学び、現地の方と交流するという取り組みをいいます。
私の通っていた小学校はエストニア、中学校はルクセンブルクが割り当てられていました。「エストニア」という国名は初めて知りましたし、中学生のときも、「ルクセンブルクって社会で習ったベネルクス3国の1つだっけ?」というレベルで、言葉も国旗も知りませんでしたが、どんな国旗でどんな言葉を話すのか、どんな宗教を信仰していてどのような文化があるのか、人々はどのように暮らしているのか等を調べていくと、私の暮らしている日本との違いがたくさんあり、とても楽しかったことを覚えています。因みに、エストニアの国旗は、上から青黒白の横縞、ルクセンブルクの国旗は、上から赤白青の横縞(オランダの国旗と似ているがそれよりも鮮やかで、サイズが違う)です。ご存知の方はいらっしゃいましたか。
また、現地の小中学生と英語で文通をしたことも良い思い出です。近所の文房具屋さんでエアメールのレターセットを買って、習いたての英語を使って、自己紹介をする手紙を作ったことを今でも覚えています。
この一校一国運動は、オリンピックを意識する良い契機になりましたし、外国に対する興味が湧くきっかけにもなりました。残念ながら、私は国際的な職業にはついていませんが、この運動を機に国際的な仕事に興味が湧き、留学をして、JICAや国連で働いている友人もいます。
今回、スピーチをするにあたり、インターネットで少し調べてみたのですが、オリンピックが終わって15年が経過した今でも、一校一国運動を継続している学校があるようです。例えば、内戦後の混乱期にあったボスニア・ヘルツェゴビナと交流した小学校では、地雷を踏んで手足を失った子どもに義足を送るための資金集めを継続しているということでした。
長野オリンピックでの一校一国運動は評価され、その後のオリンピックでも取り入れる国が多いようです。5年後に予定されている東京オリンピックでも、是非、実施してもらいたいなと思っています。

イ 雪ん子
2つ目の印象に残ったことは開閉会式に「雪ん子」として出演したことです。
「雪ん子」は、各小中学校から2名ずつ選ばれ、それぞれ一校一国運動で交流をしている国の国旗をデザインした衣装を着用して、森山良子さんが中央でテーマソングを歌う際に周りで歌いながら踊った子ども達のことをいいます。また、プラカードを背負って各国の選手たちを先導したり、聖火リレーのアンカーの伊藤みどりさんが聖火を点灯する前に、聖火を手にした義足ランナーのクリス・ムーンさんと一緒に会場を走ったりもしました。
私は、オリンピック開催前年の初夏に担任の先生から「オリンピックでプラカードを持ってもらえないか。」という依頼があり、「持って歩くくらいならいいかな。」くらいの軽い気持ちで引き受けたのですが、初回の練習に行ったら、踊ることになっていて大変驚きました。結局、オリンピック前半年間は、毎週のように、半日から1日がかりで、劇団四季のダンサーたちから踊りを教えてもらっていました。踊りの経験がなく、運動神経も悪い私ですが、当時は身長が低く、小学生と並んでも違和感のない体型だったことと、ピアノや吹奏楽をやっていてリズム感があると思ったことが、声がかかった理由だったようです。
戸惑うことも多かったですが、他の学校の友人が大勢でき、森山良子さんや小澤征爾さんといった有名人の方とお会いして写真を撮っていただいたり、サインをいただいたりし、さらには、モーグルで金メダルを取った里谷多英選手をはじめとする各国のオリンピック選手に握手をしていただくなど、とても貴重な経験をさせていただきました。

(3)長野オリンピックは、施設建設費等でお金がかかり、失敗だったと言われることが多いですが、今お話しましたとおり、私個人にとっては、良い思い出です。
5年後の東京オリンピックも色々と物議を醸していますが、決まったからには皆の心に残る、良いオリンピックになると良いなと思っています。

3 中学・高校は部活一色
オリンピックについて長々とお話してしまいましたが、私のことに話を戻します。
中学では吹奏楽部、高校では管弦楽部に所属して、フルートを担当し、部活に明け暮れる日々を送っていました。
お陰で、家では寝てばかりだったので、日々の授業とテスト前の徹夜の追い込み程度しか勉強をしていなかったので、コツコツとやる癖がつかず、後々、後悔をすることになります・・・。

4 大学・ロースクール
中大には、指定校推薦で入学したのですが、周囲の友人は、大学受験で努力した子も多く、「頑張っていない自分」にすこし劣等感がありました。そこで、私も何か頑張りたい、という気持ちから「折角法学部に入ったのだし、資格を取得してみたいな。」「何か人の役に立てる仕事が良いな。と思うようになり、司法試験の世界に足を踏み入れることになりました。大学2年生の頃のことです。
司法試験は、当然ながら、それまでの私のスタイル(授業+テスト前の徹夜)で通用する試験ではなかったので、勉強のリズムがつかめず、苦労しました。周りの方にお世話になりながら、なんとか中大のロースクールに進学できましたが、ロースクールでも優秀な同級生に置いていかれないようにと必死で、毎日、夜の12時近くまで自習室に残って勉強していました。
なお、実は、当LCの横井Lは、ロースクールのときに刑事実務を教えていただいた恩師です。私自身は優秀な生徒ではなかったと思いますが、横井Lの授業はわかりやすいとクラスメイトに好評でした。

5 司法試験合格後
その後、なんとか司法試験に合格し、現在、弁護士として働き初めて4年目になります。
経験が浅い私が弁護士業を多く語ることは出来ませんが、会社の運命や、人の人生を左右する場面に立ち会うため、重圧におしつぶされそうになったり、自分の非力さに落ち込んだりすることもあります。しかし、その反面、うまくいった時の達成感や、依頼者の方から「相談して少し心が軽くなりました。」等と言っていただけたときの嬉しさは格別です。そんなときに、弁護士になってよかったなと思えます。
まだまだ未熟な部分が多い私ですが、皆様、これからも、ご指導のほど、宜しくお願いいたします。

とりとめもなく、お話してしまいましたが、以上で私のスピーチとさせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。

【増尾知恵・記】

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